石にかじりついてでも家族を養う
昭和53年4月、国鉄入社以来さまざまな職場に身を置き、あらゆる職務に就いてきた。それは決して楽な行路ではなく、時には茨の道であっただろうが、飽くなき向上心と反骨心が自ら追い風を引き寄せてきた。
高校卒業後、当時の国鉄へ。記念すべき初の配属先は新宿駅。花の都会で華麗にデビュー!のはずが、出勤するや否や急に欠員が出たという小淵沢駅に助勤(籍は新宿駅のままで小淵沢駅に赴任)することになった。…嗚呼、代々木にあった鉄道学園在学中は、カンタベリーハウスやアップルハウス、ツバキハウスなど新宿界隈のディスコを毎晩ハシゴしてブイブイ言わせていたのに…という思いを胸にしまい、生まれ育った自然豊かな故郷・山梨県の小淵沢にUターンしたのであった。「今じゃあ、こんな仕事があるなんて信じられないでしょうけど」とあの時代を回顧する。担当業務は、小荷物係(昔は電車の頭に荷物車両がついていた)、放送係(助役さんの後ろにくっついて電車発着等をアナウンス)、そして駅舎の掃除まで。休日の楽しみは、都心に住む同僚を頼りに上京し、毎週のように繰り出したサタデーナイトフィーバー。着任して半年、エンジン全開で駆け抜けた働きぶりが認められ、社員として正式に小淵沢駅に配属される運びとなった。
小淵沢駅勤務時代、運命の出会いがあった。同僚の結婚式で共に受付を担当した女性にひとめぼれし、その一年後、新郎23歳・新婦27歳で結婚した。金のわらじを履いて射止めた恋女房と、生まれてきた2人の子どもが何よりの宝物だ。「会社の第一の出発点は昭和62年4月1日の国鉄民営化ですが、私の出発点は断然、結婚して子どもができた時。職場や環境は変われど、常に心の中にあったのは嫁と子ども達をどうやって養っていくか、それしかなかった」。民営化の時は28歳で、「新社・JR東日本というところに行きたかったし、それが叶わない場合も見据えて県職員の試験を3カ所受験。石にかじりついてでも仕事だけは探そうと思っていました」と当時の心境を振り返る。
血反吐を吐く思いで生み出す運行ダイヤ
小淵沢駅の次は武蔵小金井駅にて5年間夜勤業務に従事、その次は山梨市駅へ。民営化に際し旅行業への従事も視野に入れ国内旅行業務取扱管理者試験を受験、猛勉強の末に一発合格した。難関の海外の旅行を取り扱う資格は3度受験したが及ばなかった。忸怩(じくじ)たる思いが残る。一度決めたら、昇任試験・資格取得と貪欲に渇望してやまない性格だ。平成4年には主任試験に合格して甲府駅に転勤した。平成7年より配属の東京総合指令室では、自身ではあまり覚えていないそうだが、こんな思い出話を後輩によくされるそう。「加室さんが指令室に来た時、“俺がこの指令室変えるんだ” って宣言して凄かった!」。着任後、個人の裁量に頼ることが多く資料ゼロの状態に危惧した彼は、悪環境を払拭すべく、先達の机の引き出しをひっくり返してマニュアルを全て読み返し『運転整理の基本』を作成した。さらに、本来なら6年目で異動するところを1年引き延ばしてもらい、新人の教育担当を買って出た。加室版のマニュアルは、その後、後輩の手が入り、より完成度の高いものに仕上がったと言う。当時から“ホワイトボードデビル”の異名を持つ。ボードを使ってビシバシ理論を解説・教示する姿は、後輩たちへの人一倍の思いと、今も重なる!
次いで、平成14年より八王子支社の輸送課で“憧れのスジ屋”を。電車運転のキモであるダイヤを引く業務だ。中央線と総武線、合わせて一日約1100本もの運行ダイヤを、乗客が利用しやすいよう・現場の人間が動きやすいよう、組み立てていく。血反吐を吐くくらい考え抜く作業…根気と智恵と、何より強烈な執着心なくして成し遂げられない真骨頂である。「運行図表(ダイヤ)こそが、JR東日本の商品なんです。この沿線を利用するお客様に最高のものを提供することが使命」。その後、同じ八王子支社の広報課長を務め、主にリスク管理業務に奔走した。そして、57歳にして入社来の大望!「駅長」の辞令を受ける。
駅に育てられ38年、100年の計は中野駅にあり
この加室駅長をもってして、「正直、中野駅長の辞令を受けた瞬間は“私でいいんだろうか”と思いました。駅長になりたくてなりたくて死に物狂いで取った駅長試験ですが、それにしても中野駅で働けることは光栄です」と襟を正す。また、加室駅長にとって “駅は私のふるさと”であり、駅に育てられてきたとも。「支社勤務からしばらくぶりで“中野駅”というふるさとに57歳で帰って来た感が沸く。後輩たちに、自分が学んできたこと・培ってきたことを徹底的に返していきたい。これが私の恩返し」と、視線に揺らぎはない。
最後に、中野の皆さんにメッセージをいただいた。「中野はとても立地がいいし環境もいいし、何より人々の動きが活発。中野はこれから未来に向かいどんどん姿を変えていくのだと思います。今後は、色々なご意見をうかがいながら、中野区や経済団体、そして街に生きている人たちと一体になって、目先にとらわれず次の100年に耐え得る街づくりに協力したいですね」。
おっと!ビックリプロフィール |
JR中野駅 第53代駅長 加室 英雄(かむろ ひでお) | |
1959年4月28日生まれ。山梨県北巨摩郡(現・北杜市)小淵沢町出身。家庭菜園、ゴルフ、カメラなど多彩な趣味を持つ勉強家。一男一女の父であり孫は3人。贔屓の野球チームはヤクルトで、かつてのエース・松岡弘投手の大ファン。高校時代は、長ラン・リーゼント姿が凛々しい応援団副団長を務めた。⇒本人曰く「硬派な軟派」時代をはじめ、アッと驚く加室駅長の武勇伝は機会改めまして。お楽しみに! |