[マガジンVol24]人と上高田と商売について語る

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-12-01

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心にしみる旨い酒
地酒屋マチダヤ、ここにあり

味ノマチダヤ 木村賀衛さん(62歳)

 上高田1丁目、閑静な住宅街の一本道。日中も人影まばらな上高田本通りに、酒屋「味ノマチダヤ」がある。店先には赤や緑の日本酒ケースがうずたかく積まれ、店の男衆がテキパキと運んでいく。おいしい地酒を求めて、国内外からの客人は後を絶たない。社長の木村賀衛さんは、父の代から商売を続けて早60年。家族とともに働き、この地で暮らす木村さんに、上高田について商売について語ってもらった。 

 「味ノマチダヤ」の店内は、薄暗く肌寒い。見たこと聞いたことのない酒瓶がずらりと並び、突き当たりの冷蔵庫には全国の日本酒が鎮座する。純米酒や吟醸酒のほか、焼酎、ワインなど常時1,700種類を取り扱うが、品ぞろえ以上に力を入れるのが品質管理。日本酒はとても敏感な酒である。とりわけ、その土地の米と水で作られる地酒は、地方の小さな蔵元が多い。杜氏(とうじ)が手塩にかけて作った酒を冷蔵車で運び入れ、光を当てないよう静かに低温で保管することに細心の注意を払う。「いい状態でお客様に飲んでもらいたい」と社長・木村賀衛さんの言葉は歯切れよい。
もともと祖父母は麻布で八百屋を営み、父の代から上高田で酒屋をはじめた。4人兄弟の長男。いずれ自分が後を継ぐと思った。大学卒業後は東急ストアに入社し、野菜売り場の担当に。旬の野菜を使ったレシピを貼りだすなど、消費者への工夫をあれこれ試みた。「どんな人に、どんなものを、どの価格帯で提供するか」。現在もマチダヤで実践するマーケティングの基本は、この頃に身につけた。

▲【味ノマチダヤ】中野区上高田1-49-12 TEL03-3389-4551 10:00~18:30
火曜定休「楽しく働く!」がモットー。妻、娘も協力、22人で店を切り盛り!!

 子どもの頃、上高田本通りは八百屋や魚屋など近所の買い物客でにぎわい、酒屋だけで5軒あった。しかし、そのほとんどがコンビニエンスストアへ。商店街がさびれていくことは悲しい。しかし、「黙っていても、お客様は店に来ない」ことは身を以って知っている。父のもとで働き始めた頃、瓶ビールを扱うふつうの酒屋だった。20年前、社長を引き継ぎ、店先に立てかけていた大手有名酒のノボリを取り外した。自分の店の看板を掲げ、「ほかとは違うことをしよう」と心に決めた。そのひとつが「焼酎メモリーカップ」。焼酎をカップ酒の容器に入れ、お湯を注ぐ目盛を付けて販売。カップには蔵元ごとにオリジナルデザインを施して、すべて250円!! 爆発的に売れた。その後、地酒をカップ酒にするなどマチダヤの看板商品に。「蔵元と協力しながら、手頃な価格で日本酒を楽しめる企画を今も考えているよ」と木村さんの表情がやわらぐ。
 日本酒をたしなみ、翌朝に飲みすぎでいやな思いをした人は多い。米が不足した昭和のはじめ、水とアルコールを添加し、糖類や酸味料などを加えて大量に酒を作る方法が編み出された。そんな酒は、今も世に出回っている。しかし、本当の日本酒は、米の甘みとほのかな香りが口に広がり、旨味がある。だからこそ、多くの人に本物の味を知ってほしいと切に願う。「今って、食卓でお父さんが日本酒を楽しむ風景を子どもたちが知らない。だから、酒を飲まない若者が増えているのかもね…」と木村さんの話が途切れた。
 昭和小(現白桜小)、五中で学び、3人の娘も上高田で育った。1歳になる初孫も、静かで住みやすいこの寺町で育ってほしいと願う。愛着ある地元だ。「わざわざ不便な上高田まで酒を買いに来てくれるのだから、あちこち寄ってもらいたい」。日本の文化である日本酒。その旨さを伝えながら、地元との交流…誰もやったことのない新しい試みが見逃せない。

▲【味ノマチダヤ】中野区上高田1-49-12 TEL03-3389-4551 10:00~18:30
火曜定休「楽しく働く!」がモットー。妻、娘も協力、22人で店を切り盛り!!

[マガジンVol24] 中野の片隅に輝く縫製工場  株式会社 辻洋装店

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-12-01

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洋裁ひとすじ! いい人間がいいものをつくる!

 上高田の住宅街、ちょっと路地を入った意外な場所に社員50名余りをかかえる縫製工場がある。「株式会社辻洋装店」。プレタポルテとも呼ばれる既製の高級婦人服製造を事業とし、その大部分を占めるブランドがジュン・アシダの作品という。世界的にも有名なデザイナーのプレタポルテを手掛けることになった経緯や、最盛期は都内に900社あった縫製会社が80社に減少した業界で、今も中野の地で輝く同社のエッセンスを紐解いてみたい。


▲辻庸介社長(70歳)に草創期から現在に至るまでお話を伺った。気さくで温かい人柄で、つい何時間でも話したくなってしまう

「人より余分に働きなさい」

 辻洋装店の創業は昭和22年。人形町にあった家を空襲で失い中野に逃れ、出征した夫に代わって一家を支えていた辻至子(よしこ)さんが、腕一本で当時では珍しいオーダーメイド店を出した。採寸から型紙づくり、ミシン掛けまですべてコツコツと丁寧な手作業で仕立てる洋服は評判を呼んだ。やがて無事に帰還した夫も洋裁を学んで洋裁塾を開いてから、新井薬師・梅照院の前に1階が洋装店、2階が塾の家を建
てた。そんな環境で育った昭和17年生まれの長男=のちの2代目社長・庸介氏は、高校生の時分から家を継ぐと決め文化服装学院へと進む。そして他店へ見習いに出て1年半、社長として切り盛りしていた母が病に伏したため急遽実家に呼び戻された。当時はイージーオーダー品(デパートから注文を受けて製造)を納めていた辻洋装店を何とか引き継ごうと、朝から寝る寸前までひたすら働いたと言う。その心には、「人より余分に働きなさい。そうすればいろんなことが見えてくる」という厳しい母の教えが刻まれている。

▲かつてジュン・アシダの取締役を案内した里平さん(現・統括部長)。「実は取締役の方と知らず、社員教育のことをひたすら喋ってしまって」と当時を懐かしんだ

▲小気味いいミシンの音が響く室内。グループが机を寄せ合う

▲美しいカーブを描く繊細な襟元などの部分は手作業で仕上げる

▲アイロンをかけて布にクセをつける。細かい工程が仕上がりを良くする

「あなたはいい社員をお持ちだ」

  庸介氏の社長就任後、株式会社化して今の上高田に移転し順調に従業員も増えていたが、21年前の平成3年にバブル崩壊。その頃、高級服製造にシフトしていた会社は激動の日々を送ることになる。仕事が激減した上に、今度は辻社長が心臓の病に倒れてしまう。長男の吉樹氏が跡を継ぎたいと修行に出ていた矢先のことだった。「継いでくれるのは嬉しいが景気も悪いし、いずれダメになるかも…」と弱腰に。ようやくの退院時、担当医に告げられたのが「今は持ちこたえたけど10年後は保障できないよ」。ハッと目が覚めた。「よし、あと10年あるなら色々できる!」と思い立ち、長男を呼び寄せ、起死回生に乗り出した。
「人を増員してもなお、満足できる確かな洋服をつくりたい」と辻社長が思い至った製造スタイルは“グループ制”。4~5人が一つのグループをつくって最初から最後まで洋服を仕上げていく。完成まで100以上もある工程は流れ作業でこなす工場がほとんどだが、少人数ですべて仕上げることでスタッフ一人ひとりのスキルアップにつながり、洋服づくりの楽しさややりがいを感じることができる。グループには入社したての初心者を必ず一人加え、若い力をみんなで育てている。高い技術力を支えるグループ制が、くだんのジュン・アシダ受注に結び付く。ある日突然ジュン・アシダの取締役が訪問した時、辻社長は母親の危篤の知らせを受け不在。代わって女性社員が工場を案内した。その後取締役に「あなたはいい社員をお持ちですね。普通は製造の効率だとかをアピールするものですが、この方は後輩を育てる話を一生懸命してくれましたよ」と、取引が開始した。何カ月か後、今度は芦田淳先生本人に呼ばれ、「腕のいいベテラン職人が少数で仕上げるのが常識だった。なのに、この社員の多さで、しかも若い人たちがこんなに素晴らしいものをつくれるとは不思議!もっとうちの仕事をしてくれ」と改めて要請されたのだった。

▲出来上がった洋服が運ばれてくる部屋。最後の手作業や仕上げを行う

▲用途によって多種類のミシンを使いこなす

▲頼れる3兄弟。(左から)アトリエを仕切る三男・豪さん、専務の長男・吉樹さん、プレス部主任の次男・将之さん

 

「洋服づくりは人づくりの道」

  不景気の波にあっても、毎年5~7名の新入社員を採用する。「何も分からない1年生社員にもちゃんと給料を払ってゼロから教えるのは覚悟のいることですが、人材を育てていかないとこの業界はダメ」と断言する辻社長が、常々発する言葉がある――「いい人間がいいものをつくる」。洋服づくりもそうだが、人づくりに重きを置き、外部の講師を招いて定期的に心を豊かにする勉強会を開いている。そんな父を見て育った子どもたちは、長男に続いて次男・三男も入社しそれぞれの持ち場で頑張っている。三男の豪さんがポツリと話してくれた。「もし父が八百屋だったら八百屋をやっていましたよ」。若い女性スタッフにそっと聞いてみたら、どの子も「辻社長がどんな人かって?やさし~い!!」と歌うように答えてくれた。

  

▲完成したジュン・アシダの春物スーツ。毎日70〜80着を出荷

辻社長語録●若いあなたへ
「本当に自分がやりたいことを見つけるのがあなたたちの務め。見つかったら、簡単にやめないで頑張って」

辻社長語録●従業員全員へ
「社長とは言っても、自分がみんなに一番お世話になっています」

辻社長語録●1年生社員の二人に
「朝礼のスピーチで、“周りの先輩がとてもいい人で、仕事は大変だけど入社して良かった”“帰宅した私をやさしく気遣ってくれる姉に感謝している”と話してくれた2人は抱きしめたいほどかわいかった。周りの人が良く見えるのは、自分の心が素敵だからですよ」

▲本社。住宅街の路地を入ったところに佇む
株式会社 辻洋装店
【本社】
中野区上高田2-10-14 TEL 03-3388-0019
【アトリエ】
中野区上高田1-36-15 TEL 03-3319-0133
http://tsujiyosoten.co.jp/
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[マガジンVol24] 編集部突撃レポート 3年に一度の大神輿に密着!

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-11-30

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3年に一度の大神輿に密着!上高田は熱く燃えた一日

1453年に創建された上高田氷川神社の、3年に一度の伝統の祭り「大神輿渡御」(おおみこしとぎょ)が9月9日に行われた。参加25団体、町のあちこちから湧き出る人々多数! 上高田町内総出、近隣の町も加わっての一大イベントだ。台座3尺3寸の大神輿が朝9時に神社を出発する「宮出」で始まり、一日かけて町内中を練り歩き、夕刻に氷川神社に戻って「宮入」。神輿蔵へ神輿が奉納され、閉幕。上高田の熱い一日を、おこのみっくすの取材カメラが追った。

[マガジンVol24]人と上高田と寺について語る

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-11-30

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子どもたちとともに上高田の寺になった

萬昌院功運寺・住職 佐々昌樹さん(57歳)

【萬昌院功運寺】
中野区上高田4-14-1  TEL 03-3387-6321
★おもな行事    FAX 03-3387-6324
●12月31日除夜の鐘●1月1日新年祈祷

中野には、48の寺院がある。そのうち17が、上高田に集中する。古くから、麦や大根、ごぼう、柿などを江戸へ出荷する農村地帯。明治40年代から大正はじめ、東京市の区画整備のため、江戸城周辺の寺の多くが立ち退くことに。東中野駅からほど近く地盤の固い上高田に、16の寺が移ってきた。その最後が萬昌院(現萬昌院功運寺)。住職・佐々昌樹さんに、寺町上高田について地域の人びとについて話を伺った。 

黄金色のけやきの大木、風格漂う山門をくぐると、子どもたちのにぎやかな声が聞こえる。境内の右手には幼稚園、正面は本堂。萬昌院功運寺は、萬昌院と功運寺という2つの寺院が合併した寺である。
その歴史は古い。萬昌院は、戦国武将の今川義元の子・長得(曹洞宗僧侶)が、天正2年(1574年)に佛照圓鑑禅師をまねいて半蔵門近くに開山。いく度かの移転後、大正3年(1914年)に牛込から中野・上高田へ移転してきた。一方の功運寺は、徳川秀忠につかえた永井尚政が、慶長3年(1598年)に黙室芳 禅師をまねいて桜田門外に開いた寺である。数度の移転を経て、大正11年(1922年)に三田から上高田・萬昌院のある境内へ。以後20年余り、同じ敷地内に2つの寺があったが、昭和23年(1948年)に両寺の名を残して正式に合併し、現在に至る。

4人兄弟末っ子の、佐々昌樹さん。「やる気のある者に跡を継がせる」と父の教えに従い、16年前から住職を継いだ。「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」は、曹洞宗・道元禅師の教えのひとつ。修行とは特別なことを行うのではなく、日常生活の中での行いが大切だと説く。園長を務める「まこと幼稚園」では、4歳から6歳の子どもたちに挨拶の意味も教える。私の命のためにあなたの尊い命を「いただきます」。そして、あなた
の命の分までしっかりと生きていきますと感謝の気持ちで「ごちそうさま」と言って、手を合わせる。
明治のはじめ、寺子屋をもとに6つの小学校を東京に設立。江戸時代から寺子屋を開いていた萬昌院は、日本で最も古い小学校のひとつに。戦後まもなく幼稚園を設立し、同時に地元の子どもたち向けに「おはよう子ども会」や「日曜学校」などの会をはじめた。境内では、ラジオ体操やボール遊びをしたり、宿題をすることも。日曜の午前中、多い時は200人を越える子どもでにぎわった。塾や習い事に忙しい子どもが増えて、参加する子がほとんどいなくなり2年前に休園となった。それでも「いつかまた子どもたちとできること」を模索中だ。

昨年3.11は、園児たちが帰る直前だった。送迎バスは出さず、お母さんたちに一斉メール。自転車や徒歩で迎えに来てもらい、みな無事に帰宅。なかには、「不安なので、もう少し幼稚園にいてもいいですか?」と居残る母子。歩いて帰宅する人や山門で足を休める人のために、夜遅くまで境内の明かりを灯し続けた。関東大震災、戦災を経験し、上高田に移転して再来年は100年を迎える。「幼稚園や日曜学校を通じて地元にとけ込んできた」といい、毎年大みそかには、除夜の鐘をつく卒園生が次々訪れ、「ちょっとした同窓会になるんですよ」と誇らしげ。萬昌院功運寺は、子どもたちとともに育んできた寺である。

▲午前中は、子どもたちと園庭や砂場で遊んだりして幼稚園で過ごす。「園長先生、さようなら~!」子どもたちの挨拶が響く

▲「幼い頃から身につけてほしい」と、命の大切さを伝える。ポニーのオレオ(右)とゴールデンレトリバーのレオンは、園児の人気者!


 

[マガジンVol24]シリーズ第2弾 上高田特集

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-11-30

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冬本番!お寺をめぐって、垣根をながめて、上高田っていい町だな~

古くから、のどかな農村地帯だった上高田。今もその面影を残しながら、さまざまな歴史を持つ17の寺があり、「寺町」としての顔も。駅からちょっと歩きますが、静かな小道から思わぬ発見が。庄屋さんの垣根をながめて、穴場のお店をのぞいたり・・・。土地に人あり、人に歴史あり。マガジン片手に、土の香りする「都会のふる里・上高田」で深呼吸しませんか?

 

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人と上高田と寺について語る

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韓国料理 豚カルビ専門店 むぎ家

味ノ マチダヤ

RYOMA本店

メイハーネ オゼリ

ダカ インドレストラン&バー

 

[マガジンVol24]PINの店

| カテゴリー Vol24, おこのみっくすマガジン | 投稿日時 2012-11-28

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